九十年代的某個冬天,北方的雪下得很大很白。回老家探親的一個早上,嘴巴里還在吃著餃子的我,突然接到了一個電話,“你好,我叫XX,是XXX的第一任總經理。從你的朋友處知道了你,我們現在準備建設第一家獨資企業。希望你能來看看,如果你覺得不適合自己,我們負擔往返的飛機票”。
九十年代のある冬は、北方では雪がとても多く、とても白かった記憶があります。故郷に両親を見舞いに帰っていたある朝、口に餃子を入れ食べていた私は、突然一本の電話をもらいました。“こんにちは、XXXと申します。XXXの初代総経理です。お友達から貴君のことを知りました。我々は現在初めての獨資企業を建設しようとしています。見に來てほしいと思いますが、もし貴君が自分の気持ちにそわないと思われるならば、往復の航空券を當方が負擔します”。
以前接觸過很多日本人,這是第一個讓我感到講話如此簡潔利落、富有誠意的人。那一年我榮幸地成為了第一個進入公司的人,他也成為了我的直屬上司。
以前から多くの日本人と接觸しましたが、初めてお話する方がとてもてきぱきとしていて、誠意に富んだ人だと私に感じさせました。その年、私は幸いにも會社の第一社員となることができました。電話をくれたその方も私の直屬の上司となりました。
南國的夏天高溫多濕,多雨酷熱。工廠的周邊蚊蟲肆虐,只有芭蕉林、沼澤地,一片荒涼。每天從住處步行幾十分鐘到建筑工地,草棚里開工程會議,手寫進展報告發傳真到日本總公司(那時還沒有Email)…日子雖然十分艱苦,但多年以后這些都成了一輩子無法忘記的記憶。
南國の夏は高溫多濕で、雨が多く、暑苦しいところです。工場の周辺は蚊や蟲が多く、バナナ畑、泥沼があるだけでしたので本當に荒涼たる光景でした。毎日住居から工事現場まで數十分間歩いて通い、藁葺きの小屋で工事會議を開いたり、進捗狀況を手書きして日本本社にファックス(當時はまだEmailがなかった)したりしていました。日々はかなり苦しかったですが、數年後これらは全て一生でも忘れがたい思い出となりました。
與政府的交涉、招聘員工、投產成功、第一次出貨、開業儀式…他嚴謹務實,經常以身作則,忘我地工作。他的安全帽上寫著「安全第一」,有些員工不滿意工資待遇,他會耐心聽取意見,并鼓勵大家為了安全生產,提高效益而努力。
役所との交渉、従業員の募集、稼働成功、初出荷、開業式…上司である彼はとても緻密にきびしく、現実的に対処し、常に自ら見本を示し、仕事に専念していました。彼のヘルメットには「安全第一」と書いてありました。ある従業員は賃金待遇に不満を示しましたが、彼は意見をよく聞き取り、安全に生産を行い、収益を向上させるよう努力しようと勵ましていました。
在這樣的領導帶領下,公司不僅如期地完成了工廠的建設,順利投產,而且作為一個日本人,他得到了當地政府和公司員工由衷的尊敬和信賴。
このような総経理のリーダーシップの下、會社は納期通り工場の建設を完成させ、順調に稼働させただけでなく、一人の日本人として現地政府と會社従業員から心からの尊敬と信頼を得ました。
當歸任到日本的他得知我考取了日本早稻田大學研究生院,將到日本留學攻讀學位。他一個人搭飛機從東京第一次來到了我東北的老家,和我的父母約定,在日本留學期間他會替我的父母作好我的「教育」和「指導」。那一年也是個大雪紛飛的冬天,北方的風很刺骨,零下25度左右。他的一番樸素的話語和厚情,讓我的家人度過了一個十分溫暖的冬天。
日本に帰任した彼は私が日本早稲田大學の大學院に受かり、日本へ留學することを知ってから、一人で飛行機で初めて東京から私の東北の実家に飛んできました。私の両親に日本留學中に親の代りに「教育」、「指導」をすると約束しました。その年も大雪が舞う冬でした。北方の風が肌を刺すような寒さ、零下25度でした。彼の心底素樸な言葉と厚情は、私の家族にとても暖かい冬を過ごさせることになりました。
到了日本,我接受了他三個約定。1,每個月到他在千葉縣船橋市的家吃一頓家常飯2,不和別人發生借錢往來3,多接觸日本社會,多交朋友。兩年的留學生活,我一直銘記著這三個約定。
日本に著いてから、彼から三つの約定を受けました。1、毎月一回彼の千葉県船橋の家で家庭料理を食べること。2、他人と金銭の貸し借りをしないこと。3、日本社會と多く接觸し、友達を多く作ること。2年間の留學生活の間、私はずっとこの三つの約定を心がけていました。
每當我來到船橋市,他和他的太太總會十分熱情地招待我,聽我講我的學習和打工的情況,就仿佛回到了在中國自己的家,在父母身邊一樣。不知不覺中疲憊的身體仿佛再一次充了電,有了精神。再次工作后,走過很多地方,也品嘗過各種美食,但是沒有任何的飯菜能比那兩年24頓家常飯菜讓我更加記憶猶新。我想那24頓飯菜更多地包含了人對人最樸素的恩義和他給予我的安慰和期待。
船橋市に行くたびに、彼と奧さんはいつも暖かく御馳走してくれて、私の勉學とアルバイトの狀況を聞いてくれました。まるで中國の自分の家に帰り、父母のそばにいたようでした。疲れていても體はいつの間にかもう一度充電され、元気になりました。再び職場に戻った後、多くの地方に行き、様々な美味しい食べ物を食べましたが、どんな料理もその2年間24食の家庭料理ほど記憶になお新しいものはありません。その24食には人と人との間の最も素樸な恩義、彼からの慰安と期待がより多く含まれていたと思っています。
2013年5月份,他離開了人世。他太太告訴我,他住院的時候沒有表達任何痛苦,最后三天在睡眠中安靜地離開了。我帶一起工作過的公司里的土去給他掃了墓,我想他看到那塊他曾經奮斗和生活過的土地,一定會在天堂會心地笑吧。
2013年5月に、彼は此の世を去りました。彼の奧さんは入院中殆ど苦痛を訴えることなく、ここ3日ほどは眠りながら穏やかに逝きましたと私に言ってくれました。私は一緒に働いた會社の土を持って彼のお墓參りをしました。その奮闘し、暮らした土を見た彼は、きっと天國で微笑んでくれるでしょう。
人的一輩子會遇到各種各樣的緣分,我們都是在緣分中慢慢成長的,這些緣分值得好好珍惜、珍藏。
人間の一生の中で様々な御縁に逢うことで自ら育てられ、成長しています。これらの御縁をよく大切にしていきましょう。