三.栗子花
寺田寅彥
? 我曾住過(guò)三年的吉住家,位于黑發(fā)山山腳下稍稍往里的地方。屋子后面是狹窄的后院,上面被幾乎長(zhǎng)在懸崖上的大樹(shù)密密麻麻地覆蓋著。傾斜的落葉樹(shù)的果實(shí),與鵯鳥(niǎo)的鳴叫聲一起落在房檐上。我借宿的獨(dú)立房屋前門(mén),一定要通過(guò)后院。面臨庭院的客廳盡頭,有一間只有三張榻榻米大小的房間突出在外,它有一扇漂亮的圓窗。這里一定是房主女兒的起居室,圓窗的拉窗,連夏天也緊閉著。一到夏初,忙于作考試前的準(zhǔn)備工作期間,纓帶似的黃花從房頂一直到院子落了一大片。落花腐爛之后,小小的庭院中充滿(mǎn)了一種甜甜的濃烈的香味。大批大頭蒼蠅發(fā)出聲勢(shì)浩大的嗡嗡聲,聚集到這里。我想是勢(shì)力強(qiáng)盛的大自然,用旺盛之氣襲擊了它們的腦袋吧。散落著花瓣的窗戶(hù)內(nèi),房主羞怯的女兒低垂著腦袋,正在學(xué)習(xí)讀書(shū)或做針線(xiàn)活。我初次來(lái)到這人家時(shí),她才剛十四五歲的樣子,披散著立桃式頂髻的額發(fā),色澤黝黑,容貌俊俏,目光清澈,從哪方面看都是一個(gè)可愛(ài)的女孩。由于房主夫婦沒(méi)有成年的孩子,在親戚的孩子中領(lǐng)養(yǎng)了一個(gè)。他們除了女兒之外,只有一只三色貓,不用說(shuō)是一個(gè)很寂寞的家庭。至于我自己,一向是不愛(ài)說(shuō)話(huà)的怪人,很少與房主說(shuō)親切話(huà),對(duì)女孩更未說(shuō)過(guò)悄悄話(huà)。每天吃飯時(shí),那女孩隨著她那木屐聲出現(xiàn)了,帶著本地口音說(shuō)道:“請(qǐng)別誤了吃飯!”說(shuō)完便匆匆而去。開(kāi)始時(shí),僅僅是作為孩子的想法,可是隨著每年夏天探親回來(lái),總覺(jué)得自己有點(diǎn)長(zhǎng)大了,自己的眼睛也看得更清楚了。考試前的某一天,掌燈時(shí)節(jié),我復(fù)習(xí)膩了,便從獨(dú)立房屋的走廊走出來(lái),栗子樹(shù)花的香味撲鼻而來(lái)。房主屋前的灌木叢中,女孩穿著雪白的衣服,系著紅色的帶子,一個(gè)人坐在暗淡的光線(xiàn)中。這時(shí)她從正面凝視著我,露出了奇怪的笑容,接著像是追什么東西似的,向客廳方向飛奔而去。到那年夏天為止,我離開(kāi)那個(gè)地方去了東京,第二年夏初時(shí)節(jié),收到了從幾乎忘了的吉住家發(fā)來(lái)的信,似乎是那女孩寫(xiě)的。由于除了賀年片之外,從未聽(tīng)到任何關(guān)于他們家的消息,女孩將他們?cè)谙胄┦裁矗麄兡堑胤降臉幼樱斣敿?xì)細(xì)地寫(xiě)信告訴我。她還問(wèn)我,離開(kāi)原來(lái)住的地方之后,有沒(méi)有在誰(shuí)家借宿。信上還寫(xiě)著,東京那地方,一定是個(gè)好地方吧,一生中想去那里看一看。關(guān)于其他事情,似乎再?zèng)]有寫(xiě)什么,我總覺(jué)得那艷麗的筆調(diào),畢竟出自年輕人之筆吧。最后結(jié)束時(shí)寫(xiě)著,栗子樹(shù)開(kāi)花等候回信,不久花謝亦等候回信。落款人姓名,是以母親的名義寫(xiě)的。
三 栗の花
三年の間下宿していた吉住(よしずみ)の家は黒髪山(くろかみやま)のふもともやや奧まった所である。家の後ろは狹い裏庭で、その上はもうすぐに崖(がけ)になって大木の茂りがおおい重なっている。傾く年の落ち葉木の実といっしょに鵯(ひよどり)の鳴き聲も軒ばに降らせた。自分の借りていた離れから表の門(mén)への出入りにはぜひともこの裏庭を通らねばならぬ。庭に臨んだ座敷のはずれに三畳敷きばかりの突き出た小室(こべや)があって、しゃれた丸窓があった。ここは宿の娘の居間ときまっていて、丸窓の障子は夏も閉じられてあった。ちょうどこの部屋(へや)の真上に大きな栗(くり)の木があって、夏初めの試験前の調(diào)べが忙しくなるころになると、黃色い房紐(ふさひも)のような花を屋根から庭へ一面に降らせた。落ちた花は朽ち腐れて一種甘いような強(qiáng)い香気が小庭に満ちる。ここらに多い大きな蠅(はえ)が勢(shì)いのよい羽音を立ててこれに集まっている。力強(qiáng)い自然の旺盛(おうせい)な気が脳を襲うように思われた。この花の散る窓の內(nèi)には內(nèi)気な娘がたれこめて読み物や針仕事のけいこをしているのであった。自分がこの家にはじめて來(lái)たころはようよう十四五ぐらいで桃割れに結(jié)うた額髪をたらせていた。色の黒い、顔だちも美しいというのではないが目の涼しいどこかかわいげな子であった。主人夫婦の間には年とっても子が無(wú)いので、親類(lèi)の子供をもらって育てていたのである。娘のほかに大きな三毛ねこがいるばかりでむしろさびしい家庭であった。自分はいつも無(wú)口な変人と思われていたくらいで、宿の者と親しいむだ話(huà)をする事もめったになければ、娘にもやさしい言葉をかけたこともなかった。毎日の食事時(shí)にはこの娘が駒下駄(こまげた)の音をさせて迎えに來(lái)る。土地のなまった言葉で「御飯おあがんなさいまっせ」と言い捨ててすたすた帰って行く。初めはほんの子供のように思っていたが一夏一夏帰省して來(lái)るごとに、どことなくおとなびて來(lái)るのが自分の目にもよく見(jiàn)えた。卒業(yè)試験の前のある日、燈
(ひ)ともしごろ、復(fù)習(xí)にも飽きて離れの縁側(cè)へ出たら栗(くり)の花の香は慣れた身にもしむようであった。 主家(おもや)の前の植え込みの中に娘が白っぽい著物に赤い帯をしめてねこを抱いて立っていた。自分のほうを見(jiàn)ていつにない顔を赤くしたらしいのが薄暗い中にも自分にわかった。そしてまともにこっちを見(jiàn)つめて不思議な笑顔(えがお)をもらしたが、物に追われでもしたように座敷のほうに駆け込んで行った。その夏を限りに自分はこの土地を去って東京に出たが、翌年の夏初めごろほとんど忘れていた吉住(よしずみ)の家から手紙が屆いた。娘が書(shū)いたものらしかった。年賀のほかにはたよりを聞かせた事もなかったが、どう思うたものか、こまごまとかの地の模様を知らせてよこした。自分の元借りていた離れはその後だれも下宿していないそうである。東京という所はさだめてよい所であろう。一生に一度は行ってみたいというような事も書(shū)いてあった。別になんという事もないがどことなくなまめかしいのはやはり若い人の筆だからであろう。いちばんおしまいに栗(くり)の花も咲き候(そうろう)。やがて散り申し候とあった。名前は母親の名が書(shū)いてあった。
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